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白石 俊介さん(3) 三菱電機株式会社 神戸製作所/湘南 社会システム第一部 次長

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白石 俊介さん白石 俊介(しらいし しゅんすけ)さん
三菱電機株式会社 神戸製作所/湘南
社会システム第一部 次長
約7000KSTEPのJAVAオブジェクト指向開発プロ ジェクトを成功に導いたスーパー・プロマネ。
1959年生まれ。電気通信大学大学院(情報数理工学)修了。1985年に三菱電機株式会社入社。

きついプロジェクトのあとに、学びの時間を確保

白石俊介さん

能登原
前回お聞きしたハードなシステムが終わったあとはどうなさっていたんですか?

白石
幸いそのあと一息つける時間ができました。そこで93年から三菱電機社内の「工学塾」に入ったんです。これは選抜で、だいたい同じくらいの歳の人間が社内から20人くらい集まって、1週間塾「缶詰め」になるんです。1年半くらいの間、毎月一単元ごとに1週間です。「エネルギー変換」「材料化学」「機械」「半導体」などうちの基幹業務についての講座が全部で11講座あって、部長クラスが先生になって講義します。1週間終わると、講義で聞いた内容を「自分の仕事に対してどう生かすか」という論文を次回の講座までにA3で1枚くらいにして出して、1週間後に今度はOHPを使って発表しなければならないんです。しかもそれは合格するまで論文を修正し続けるという…。

能登原
それはすごいな。

白石
そして最後に「卒塾論文」を書かなければいけないんです。最後に卒業したときはホッとしました。でもその時間が与えられたことが「これから自分がどうするか」をじっくり考える契機となったし、部長級のビジネスをやっている方とお会いできるんで、「こんなことじゃだめなんだな」とか、「計画を立てなければいけないんだな」とか「技術戦略をやらなければ」などマネジメントや戦略の重要性はここで教えられたんですよ。

能登原
それはおいくつのときですか?

白石
34歳か35歳くらいですね。丸々1週間仕事できないわけで、帰れば仕事が溜まっていますし、合格しないと帰ってから論文が溜まるわけですよ。それがつらかったですね。そのころの僕には土日は全然なかったですよ。例えば論文のネタがね、「材料工学」でいったい何を書いたらいいのか(笑)、すごい悩むんですね。

能登原
それを知って、さらに自分のビジネスに活かせるように持っていかなければいけないわけですもんね。

白石
「半導体」のときはしようがないからハードを勉強しました。携帯のハードを全部。工学塾生だと社内で何を聞いてもいいんですよ。

能登原
そういう特権があるんですね。

白石
講師は講師で、工学塾には各場所から若手が来ているから、若手からそこの問題を聞くわけです。研修の夜は講師を囲む会というのがあって毎日飲んでました。ちょうど5時15分に終わって12時過ぎまで毎日飲むんです。最初の半年くらいは新鮮なんですよ。でも一年半やったらさすがに飽きましたね。最後はみんなで企業化ゲームをやりました。この1年半で自分が今後何をしていくべきかをかなり整理できました。

能登原
どういうことが整理できたんですか?

白石
「オープン化へのシステムモデルはどうなったほうがいいのだろうか」とか、「制御系システムとOA系をどう結んだらいいのだろうか」とか、僕自身いくつかアイディアがあって、それを考える時間を強制的に作らせてもらった。余裕はなかったですが。工学塾では論文を書かなきゃいけないんで、「工程をきちんと書く」とか「プライオリティの付け方」とかを教えてもらって、「これを道具立てで使えるのかな」とか考えてました。

能登原
ちょうどきついプロジェクトのあとで工学塾があってよかったのかもしれませんね。

白石
よく上司が行かせてくれたと感謝してます。あの時期があってほんとうによかったと思います。ただ確かに僕があのしんどいシステムをやっていなかったら選抜されなかったでしょうね。

「いつも一人」からの脱却

白石俊介さん

能登原
そのうちだんだん部下との関係も出てくるわけですね。

白石
当時、直属の部下や後輩はいなかったんですよ。最初は鎌倉の工場にいたんですけれど、87年にもっと受注拡大しようということで活動部隊が本社にできて、私は最年少でした。きついプロジェクトが始まって工場へ常駐しても、本社の背番号で行っていますから自分にはつかない。本社と工場との異動・常駐が何度かかって、僕はいつもひとりで他に社員はいないんですよ。ずっとあるお客さま対応でしたので、地場の製外さんとは仲がいいわけです。僕の部下はずっと製外さんだったんです。

それがオープン化を目指すころになってくると、社員と一緒にやっていかなければならないのに自分には部下がいないんですよ。最後は部長に頼んで工場へ転籍してもらいました。

このときは若かったからかもしれないですけれど、同じグループでやっているということがないと、当時の若い人たちは心を開かない。「やろうよ」といっても引かれちゃうんです。

僕とそういう関係の工場の若手と、一方にはべたべたの製外さんがいて、若手連中は面白くないわけですよ。製外さんは僕と同じに育っているから、それなりに客先への顔や経験があるわけですが、彼らはまだ若いからそれが少ないわけですよ。それがすごくよくなくて。彼らがだんだん僕に反発してきて「俺たちでもできるんだ」というような感じの言い方をされて変えました。そのころに僕も工場側に移させてもらってうまくいった。

今信頼している後輩たちも当時は完全に仲悪かったですね。ほんとうに水と油でした。

能登原
それは白石さんが課長になられたころですか?

白石
いや、もっと前です。94年、95年くらいですね。それまではずっと製外さんでやっていたわけです。工学塾が終わって仕事がまた忙しくなってきたころで、オープン化開発の始めは私が一人でやっていますし、ネットワーク監視システムも私だけでした。

オープン化開発の途中くらいからみんなで一緒にやっていこうという気運になりました。ちょうど「みんなで一緒にオープン化に行こうね」という目標でがっちり団結できた。「目標がはっきりしたから、みんなでがんばろう」と。始めが大変でしたが、地元の支社の営業マンが私を支えてくれました。もう10年以上支えてくれています。腐れ縁かな。

能登原
社内じゃなくて外注さんを部下に持つというパターンは多かったんですか。

白石
多かったです。もともと制御系の伝統があるからです。制御のほうは工場でできたら、半年くらい現場に行きっぱなしじゃないですか。ひとりで外注を使って全部やるということになっていましたから、OAになってもその癖が抜けていないのかな。今思えばおかしいと思うんですが、当時はそうだったんです。「ひとりで金勘定も仕様もやるのがSEなんだよ」といわれていました。

能登原
プロデューサーなんですね。

白石
そうです、下手するとプログラムなんか組めなくてもよくて、コーディネートしていればいい。当時はそれでやっていたんですね。

それがだんだんバブル入社人間が多くなってきて、社員があふれてきた。それも背景にあるんだと思うんですけど。仕事のやり方も、自分だけでやるんじゃだめでチームでやるんだというのを自覚しましたね。

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能登原 伸二
■株式会社アイ・ティ・イノベーション 取締役 兼 専務執行役員 ■株式会社ジャパンエナジーの情報システム部門において、長年、情報システムの企画、開発、運用までの幅広い業務に携わり、ITによる業務改革、収益向上を支援してきた。また、その実務を経験する中で、システム開発における開発方法面の必要性を認識し、C/S向け開発方法論の制定、導入を推進。常に顧客と共に考え、行動し、成果を上げることをモットーとしている。

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