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依田 智夫さん(3) 株式会社シナジー研究所 代表取締役

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依田智夫さん依田 智夫さん
株式会社シナジー研究所
代表取締役
1978年、慶応義塾大学大学院管理工学専攻修士課程修了。同年東洋エンジニアリングに入社。自動車産業を中心に、オブジェクト技術に関するコンサルティングやシステムインテグレーションを担当。1997年、株式会社シナジー研究所を設立、代表取締役コンサルタント、e-ビジネス分野におけるビジネス分析、オブジェクト分析設計、フレームワーク設計、開発プロジェクト管理などに従事。一貫して、モデルによるソフトウェア開発生産性の向上を追求してきた。 2002年、ビジネス系MDAツールの草分けである独IOソフトウェア社「ArcStyler」の販売とコンサルティングを開始。2003年4月、東洋エンジニアリング株式会社 上席ITコンサルタントに就任。物流センター管理、金融系など、大規模オブジェクトシステムの開発プロジェクトに参画している。『Javaオブジェクト設計』、『実践UML』(いずれもピアソン・エデュケーション刊)など訳書多数。

情報システム部からFA(ファクトリーオートメーション)新規事業に

依田智夫さん

依田
自分史を書くと脳が活性化されると言いますけれど、こうやって振り返ってみるのは面白いですね。

能登原
ええ、この対談でお話をうかがうと、みなさん「あの時の失敗がよかった」とか、何らかの転機がおありになるようですが、依田さんの場合は、そのネットワーク型のデータベースをやられたあたりになるんでしょうか。

依田
転機といえるかどうか…。でもこの辺から仕事が面白くなったというのはありますね。現場のシステムをやるようになって、パソコンやオフコンもまずデータベースマネジメントシステムがどうなっているかを最初に見ました。

当時は言語としてのオブジェクトはないですから「こういうことができるか、できないか」は、もうデータベース(DB)を見るしかない。例えば、現場に持って行った最初の大きなコンピュータはヒューレットパッカードのオフコンなんですが、それに決めた理由はネットワーク型のデータベースがあったからです。私だけではなくて先輩も一緒に見て、「あ、これこれ」って決めてしまうんです。

能登原
データベースの話とPCの話は同時にあったんですね。

依田
ほぼ同時ですね。それからずっと、オブジェクトとデータベース、生産管理、ビジネスアプリです。で、やはりメインフレームよりは、JAVAだとかオープン系ということで、結局今やっているということも全くこの延長ですね。

能登原
PC登場とダウンサイジングの頃は面白い時代でしたよね。

依田
本当に面白かったですよ。あとは仕事でプロジェクト管理が経験できたことがよかったですね。

能登原
その頃にはもうプロジェクト管理をやられてましたか。

依田
今で言うMSプロジェクトのようなプロジェクトマネジメントシステムが、3千万〜5千万の高額のパッケージでありました。それを勉強するためにアメリカのエンジニアリング会社に行ったりとか、面白かったですね。今ではそのシステムは使っていませんけれど(笑)。

ここまでが情報システム部時代の話ですが、転機という意味ではここからで、「外向けのシステムをやらないか」という話があったんです。

能登原
やっぱり依田さんにも転機があったわけですね(笑)。

依田
ここまでの「情シス」の仕事は全部内向きですよね。そこで外向きをやらないかと言われた。さらに本当に転機だったと思うのは、プラント会社にいて、「情シス」で内向きのシステムをやっているところに「外向きをやらないか」と言われたら、普通はプラントのプロジェクトか営業なんですよ。ところがそうじゃなかった。

能登原
と、いいますと?

依田
この頃、ファクトリーオートメーションやロボットとか、面白いものが出てきたんです。

能登原
また古巣の制御に戻るわけですね。

依田
そうか、だから面白いと思ったのか(笑)。
プラント会社としてファクトリーオートメーションやロボットを新規事業でやろうというわけです。「人を集めなきゃいけないけれど、既存のプラントの人間を集めるよりシステム系だろう。情シスの人間はみんな内向きでやってるけど、こいつらを持ってくるしかないか」ということで、募集みたいなのがちょっとあったんですよ。私は「ロボット」とか「FA」とかっていう単語を聞いた時点で、もう「やる!」って。二つ返事ですよ。

能登原
そのお気持ちはよくわかります。

未開拓の市場発見により急成長、しかし…

依田
結局この新規事業は、メカニカルな方にはあまり行かなくて、加工組立産業の生産管理、製造管理のほうへ行ったんです。もちろんロボットやFAはやるんですよ。でもメカニカルな部分は専業のロボット屋さんとかFA屋さんに仕事が行く。

ところが、ロボットとかFA機器を集中制御するとか、実績を集めて生産管理と繋げるミドルの部分は、まったく未開拓の市場だということがわかったわけです。そこで全員で軌道修正しました。

ファクトリーフロアはそれなりに進んでいて専業の会社もあるし、一番上にはすでにパッケージも、理論も会計もある。だけど真ん中がぽっかり空いていて、当時われわれは「ミッシングミドル」と言っていましたが、エンジニアリング会社にはここの部分の仕事が来るんだというのがわかった。まあ、いってみれば大発見ですよ。

そういう話が出てくると事業にも真実味が出てくる。最初、ロボットとかFAとかっていうと「すごい専業のメーカーがあるのに、何で俺たちがそんなことできるの」と問い返されるし、それに答えられない。だけど「ほら! ここはもうごっそり空いてたよ」ということになると、どっと人が集まる。それで100人、200人規模の「産業システム事業本部」になっちゃったんです。

能登原
FAを始めたのは、どのくらいの時期ですか?

依田
始めたのが20年前でしょうね。85年くらい。産業システム事業本部になったのが、それから10年後。

能登原
95年くらいでしょうか。

依田
ええ。その10年間が余すところ2年となった頃、SAPが出てきたんです。つまり我々が「ここだここだ! 空いてるぞ」って言ったところのちょっと上くらいがパッケージとして出てきた。SAPが完全にカバーしているかというとちょっと違って、私たちはSAPのカバー範囲よりもうちょっと下をやっている。でもメーカーよりは上のところでもある。そこで「じゃあSAPも行け。独自システムも行け」という騒然とした時代になってくるわけです。

能登原
SAP登場を機に、路線が分かれるんですね。SAP派と独自システム派に。

依田
私は後者の代表みたいな形になりました。FAから始まって産業システムを作ってきた10年間というのは、基本的にお客様の話を聞いて一生懸命考えてベストな提案をしてきたという自負があるわけです。ところがSAP登場後は、「ベストな提案」という話じゃなくて、「SAPが国際標準ベストプラクティスでそれに合わせないと競争力を失わせるんだ」というセールストークにすり替わっていく。私はそれに違和感があったんです。

能登原
そこで独自システムのほうを向いたんですね。

依田
それをどうやろうかというところで、本当にオブジェクト指向が出てきたわけです。そこで、当時一番まともな処理系だったSmalltalkに飛びつきました。それからオブジェクト指向データベースも買っちゃって(笑)。

能登原
買っちゃったんですか(笑)。

依田
人も集めて、何かソリューション作ろうということになりました。それで、「部品表って面白いじゃないか」「やっぱり生産管理は部品表でしょう」みたいな話になって、ビルオブマテリアル(BOM:Bill Of Materials)のシステムを設計して作ってしまいました。それをまた元気がいいから、当時でいう、CIMジャパンってありましたよね。コンピュータ・インテグレーテッド・マニュファクチャリング(コンピュータ統合生産)って。

能登原
ありました。流行ってましたね。

依田
今は設計・製造ソリューション展(DMS)といいますが、そこに出展したんです。そうしたら、某大手自動車メーカーさんが声をかけてくれて、本社にプレゼンに行ったら、「即、入れてくれ」と。もう絶好調ですよね。

能登原
自動車との関わりはそこから生まれたんですね。

依田
ええ、そんなわけで売れちゃった(笑)。そうこうするうちに私も管理職になってるわけですが、今度は部下が相談に来て「純粋に生産管理をSmalltalkでやってみたいんです」と言う。「あ、いいんじゃない、やってみれば」と、予算をとってやったらできちゃった。それが今の「MCFrame(エムシーフレーム)」です。

能登原
いま製品になっているんですか。

依田
製品になって、いま20数社のビジネスパートナーがいるえらいシステムになっています。その頃はいろんなものがどんどん生まれる黄金期でした。極め付けに会社までできちゃった。それが東洋ビジネスエンジニアリングという会社ですね。SAPとMCFrameを扱っている。上場までして、今はとても成長性のあるすばらしい会社になっています。

能登原
その会社は事業部が独立したんですか。

依田
事業部のITが独立して店頭公開したんです。

能登原
その時に依田さんも移られたんですか。

依田
その時、私は独立してたんです。

「寄らば大樹の陰」タイプが独立を決意するまで

能登原
僕も依田さんを一番最初に知ったのは、独立されてからですね。独立された経緯というのは。

依田
原因のひとつは、通勤が遠かったからです。つまらない原因ですが本当なんですよ(笑)。
もう半分としてはやはりSAPでしょうね。確かにそれがはまると、利益率は苦労して考えるパターンの比じゃないわけですよ。そうするとみんなそっちに行きますよね。

その頃、私は産業システム研究所というTECの中の研究所を提案して,その風潮と必死に戦っていました。今にして思えば、別にそんなものと戦わなくてもよかったような気もするけど。どうしてもみんなSAPになびくので、抗しきれないところがあって…

能登原
わかるような気がします。

依田
パッケージになびくようじゃもう終わりだな。じゃ、この路線はもう自分でやるしかないと。私は「寄らば大樹の陰」タイプで、独立志向はそれほど高くないんです。だから同じ辞めるにしても、こういうことができる会社が他にあるならそこに行こうと探しました。実際に転職活動をして某シンクタンクの社長面接までいきましたが、反対されたり泣かれたりして「わかった、じゃあ、辞めないよ」なんて言っちゃって…。

能登原
辞められなくなってしまった。

依田
よくよく考えるとあまり行きたい会社っていうのもないんですよ。こういうことができる会社はなかなかなくて。そのシンクタンクでも、そのなかの小さな一組織では「できるよ」って言ってもらえたし、行くつもりになっていたんですが、おそらく社内でメジャーにはなれないだろうとも感じてました。その時私に「来いよ」と言って下さって、「面白い会社だな」と思わせてくれた方は、今、社長になっていますが。

能登原
目のつけ所が非常に優れた方だったんですね。それはちょっと惜しかったかも。

依田
でも、その時はやっぱりメジャーにはなれないと思ったし、そう考えると適当な会社がないんですよ。そこで「じゃあ、独立しちゃおうかな」って、しちゃったわけです。
普通は独立するなら仕事を探して在籍中に契約くらい作ってから辞めるじゃないですか。ところが我ながら怖い物知らずというか、何にもしてないんですよ。

能登原
ただ単に辞めたわけですね(笑)。

依田
次に何にも決めず、会社も作る前に辞めちゃった。大学を卒業したときと同じく、また無所属になりました。

能登原
でも、何とかなるというお気持ちはあったんでしょう?

依田
あったんでしょうね(笑)。12月に辞めて送別会をしてもらって、「事務所に飾って」なんて、掛時計もらいました。でもそれを掛ける事務所がないんですよ。しかたないので自宅に持ち帰りましたけど。

能登原
それはいつのことですか。

依田
96年ですね

能登原
じゃあ、弊社の林が独立する2年前ですね。

依田
そう、独立に関しては私の方が先輩なんです(笑)。

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能登原 伸二
■株式会社アイ・ティ・イノベーション 取締役 兼 専務執行役員 ■株式会社ジャパンエナジーの情報システム部門において、長年、情報システムの企画、開発、運用までの幅広い業務に携わり、ITによる業務改革、収益向上を支援してきた。また、その実務を経験する中で、システム開発における開発方法面の必要性を認識し、C/S向け開発方法論の制定、導入を推進。常に顧客と共に考え、行動し、成果を上げることをモットーとしている。

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