さて、私について、簡単に自己紹介をさせていただきます。
私は、名古屋生まれ名古屋育ちで、大学を卒業するまでは名古屋から出たことがありませんでした。最初に勤めた会社が東京にあったために上京し、様々な経緯がありましたが、仕事が面白いことと友達も多いという理由で、東京が好きになり暮らしています。両親は名古屋生まれ育ちで名古屋が大好きで、誰にでも優しい名古屋人です。私は、本当に自由に育ててもらいました。
私は、多少偏ったところがある人間です。小学校へ上がるころには、昆虫、動物、宇宙、地球の図鑑を暗記するほど興味を持ち、図鑑がボロボロになるまで読みこなしました。また、毎日、家の外に出ていろいろな生き物を捕獲し、野原や空き地の興味のある場所に通って過ごしました。また、小学校の画一的な勉強はつまらなく感じていて、科目の好き嫌いが激しく、先生を困らせることも多かったようです。それでも、好きな理科の調べごとや実験には、はまっていました。
当時、学研から月刊誌で出ていた“子供の科学”のヘビー購読者になりました。毎月科学のテーマが変わる優れた付録がついてきて、その教材を使い何かを観察、実験をするのを楽しみにしていたことを記憶しています。(本に書いていない拡張した実験も繰り返したので、時には化学実験にチャレンジし、家の中で爆発させたこともあります。マネしないように!)また、余暇には親戚、従弟も数が多かったので、頻繁にキャンプや旅行へ行きました。親戚のお兄さんお姉さんから遊びを通して、いろいろなことを教わったことも多かったと思います。
勉強という面では、自分の興味のあることしか活動・行動の対象にしない性格だったために、塾や習い事はすぐ飽きてしまい長続きしませんでした。小学校も高学年になったころ、私に変化が起こります。担任がなんでも自由にやらせてくれる体育会系の先生に代わったのがきっかけで、学校の授業が面白くなり、成績も上がってきました。また、理科は、相変わらず好きで、エナメル線やダイオードなどの電子部品を組み合わせてラジオを製作、改良もしました。また、プラモデルの模型製作、リモコンやラジコンの飛行機、船などにものめり込んでいました。世の中が科学万能主義のような風潮があったため、同じような子供は多かったと思います。
その頃に、今までとは全然違う、創造や人と人に関わる体験をすることになりました。近所の友達の誘いもあり、劇団に入団することになったのです。まったく新しい体験で、人形劇、アニメ制作をすることになりました。クラスのほとんどの子が知らない活動を行い、思いもよらない世界を知ったことは、私の人生にとって良かったと考えています。人形劇で使う人形は、大人が制作を手伝ってくれますが、基本、自分で手作りします。そしてその人形に魂を入れて役割を演じることで、新たな驚きと感動を得ます。教科書のどこにも書いていないアニメーションをゼロから制作することを知り、それを完成させ、通しで見て、少しずつ改善し公表できるようにすることの喜びを知る。感動を皆で味わうことを学んだのは、その頃でした。後程、劇団のことを知ったのですが、名古屋中央人形劇団が、正式名称であり、黒宮先生という有名な指導者から直接指導を受けました。当時、子供たちも一緒になり制作したアニメーションは、NHKの“みんなのうた”の動画だったのです。3分間の歌のアニメ一本を制作するのに約半年かかりました。劇団により“こころ”にかかわる生きた教育を受けられたのだと、私は考えています。民放のドキュメンタリ番組の作文朗読の吹き替え役に抜擢され、テレビデビューも果たしました。
学校という枠、こたえのある勉強に対して抵抗した幼年時代。創造的な理科の実験や劇団での活動は、今も印象に残っています。僕を自由にしてくれた親や先生に感謝しています。
次は、大学を卒業するまでの話を書きます。
S32年両親と。当時2歳