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梶川 哲生さん(2) コラボレーティブ・ブレイン株式会社 代表取締役

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梶川 哲生さん梶川 哲生さん
コラボレーティブ・ブレイン株式会社 代表取締役
1979年メーカー系開発会社に入社しリアルタイム系のOS開発やUNIXの移植に従事。80年代後半より外資系大手通信会社で、システム部門開発マネジャ、アジア地区プロジェクトマネジャとして日本市場向けの一連の新サービスを立ち上げるプロジェクトを統括。90年代後半以降、主に外資系の流通業の基幹業務の再構築やeコマース構築の企画・開発を指揮。2001年南カリフォルニア大学ビジネススクールMBAを取得。アスキー出版より、「ITコーディネータ資格試験模擬問題集」(共著)出版。アメリカPMI協会会員。

「情報がお金を生む世界」で学んだこと

梶川 哲生さん

能登原
世界で有数の自前のネットワークが「強み」でなくなったとは?

梶川
インターネットへの転換ができなかったんです。なまじ自前のネットワークを持っていたがゆえに、インターネットを「遅い・汚い・危ない」と捉えてしまった。その結果、競合する他社がどんどん追い上げてきた。他社の一つは顧客のニーズを非常に速く捉えて、1か月くらいでデータを提供してしまうんです。それがF社は1年かかった。

能登原
その時間差は致命的ですね。でもネットワークに限らず、完成度の高いものを既に持っていると、なかなか切り替えできず、次のステージに乗り遅れる傾向があるのは確かです。

梶川
ええ、それに加えて「衛星をどう使うか」にもアプローチの違いがありました。F社は全部自前でやらないと気がすまなかった。だから料金が割高になるんです。例えば仙台のお客さんでもわざわざ専用線を東京から引き、ビルの屋上に専用アンテナを上げなければならない。それに数百万円もかかるんですよ。一方は自前にこだわらなかった。テレビ放送サービスを衛星放送サービスを使って月額数千円で提供する。設備投資がないからこそできる金額です。F社のサービスは月額数十万円でかなり割高な価格設定になっていました。

結局1年で勝負がついて、他社はどんどんテレビ放送に進出し、F社は撤退した。それを目の当たりにして、いかに戦略が大事かということがわかりました。勝負を決めるのはテクノロジーの優劣ではないなと強く感じました。

能登原
梶川さんはF社のなかで具体的にどういうシステムを手がけたんですか。

梶川
まず日本語編集システムをUNIXシステムで開発するプロジェクトに参加しました。F社のネットワークで飛び交っているのは、ほとんど英語ベースの情報ですが、1985年当時、一時的に日本が世界の金融の主導権を握っていてニューヨーク、ロンドンのマーケットにも絶大な影響力があった。そのときに日本発の情報発信をそのシステムが担当したのです。東京証券取引所と大阪証券取引所のデータをF社のネットワークに入れるゲートウェイも作りました。万が一にもこれが止まると一秒を競っている顧客に重大な影響が発生するので、その時にセキュリティも二重化しました。

それからもうひとつ、F社のお客様は東京証券取引所の会員データをもらえますから、お客様独自のトレーディングシステムを作るということになりました。UNIXサーバを連ね、マウスのクリックひとつで自分の好きな情報を引き出しエクセルで加工するというものです。その時にUNIXベースのクライアントサーバ方式のいくつかのアプリケーションも作りました。

そういうシステムを作りながら、情報をハンドルするためにITがどう使われているかということを体験していった訳です。東証からの情報が毎秒何千個も来るのをリアルタイムでさばいて、何百台ものアプリケーションに一瞬でブロードキャストして、しかもお客様のトレーディング・ルームのカットオーバーに間に合わせなければならず、早くて正確なデータが必要です。しかもパケット・ロスしてはいけない等々、要求水準が高い。しかも英語でやらなければならないというのもあって、随分徹夜もしました。

異文化の中でマネジャとして奮闘

能登原
その時には、外国人の方も一緒に働いていらっしゃったんですか。

梶川
ええ。私は当時36歳でマネジャになりましたが、部下のメンバーがマルチ・ナショナルというか、日本人が半分くらいしかいないんです。日本人、香港人、アイルランド人、台湾人、オーストラリア人と、全部で30人くらいいた時期がありました。

能登原
それは…たいへんそうだ。

梶川
たいへんですよ(笑)。日本人でない部下が「俺の給料は何でこんなに安いんだ」とか「俺はマネジャになってもいいと思うのに、なぜなれない」とか平気でガンガン言ってくるわけです。おとなしい日本人とは違うんですよ。えらい苦労しました。後々の勉強にはなりましたけど。

能登原
そういうやり取りは全部英語なんですか。外国人部下も日本語はできるとか。

梶川
先ず、当時のメンバーはできないです(笑)。日本人同士は日本語で会話していましたが、社内のメール・システムが英語版しかなかったので、メールは日本人も英語で書かないといけない。

今思うと、あの時にカルチャーの違い、考え方の違い、世の中そんなに日本的に捉えやすい「いい人」ばかりではないということを体験したことが、のちのち良かったのかもしれませんね。当時は相当しんどかったですけどね。

能登原
一番しんどかったのは、どういったことですか。

梶川
「demanding(要求の多い)」な部下たちにどう関わるかです。一応、向こうはロジカルに「俺はこれだけ実績を出した、なぜマネジャになれない、なぜあいつより給料が安いんだ、もっと上げろ」と言ってくるわけです。しかし、こちらがどう説明しても納得しない。論理の世界ではないことを論理的に言ってくるだけで。まあ何とかそれなりの論理で乗り越えたんですね。どうやって説得したか、あまりよく覚えていないですけれど(笑)。

能登原
そういう特殊な環境じゃなくても、管理職の評価と部下の自己評価のギャップを本人に納得させるのは一番難しいですからね。

梶川
当時は円高が続いていて、彼らは日本に出稼ぎに来ていたんです。3年でがっぽり儲けて家を建てようというような連中が相手です。一方の日本人は、私も含めてそういう外国人とやり合うのに慣れていなかった。当時の私のボスはイギリス人ですから、当然英語もできてアピールする方を評価しがちになる。日本人の部下のポジションもどんどん取られていく。

そうこうしているうちに私は「日本人vs.それ以外の国の人」の間の深〜い溝の真ん中に立たされました。一時は両方から嫌われてしまって…

能登原
それは過酷ですよ。一方で通常業務での徹夜が続くわけですよね。

梶川
そうなんです。クライアントはアメリカ人、香港、中国から来ている人など、いろいろな国の人がいて、日本人でないスタッフの方が英語で上手にコミュニケーションをリードしてしまう。クライアントも英語が流暢な方が話しやすいから何でも話すんですね。そういう環境で鍛えられました。

能登原
それが今の梶川さんの基礎になっている。

梶川
当時は、突然荒波の中にぽつんと放り込まれ、溺れそうになりながら必死で泳いでいただけですけれどね。一般的なトレーニングプランはありましたが、それを消化しきれる前に、目の前にそういう環境がドサッときたので、もういきなりOJTですよ。それでも仕事に対する結果はきっちりと出せたんです。3日くらい徹夜したことがありましたけどね。慣れないC++を使ってみたり。

能登原
やはり人はOJTで育つんですね。
それまでは梶川さんはテクニカルな世界にいらっしゃったと思うんですが、その時にこれからマネジメントの世界に行くんだという意識や準備はおありだったんですか。

梶川
実はあまりなかったですね。たまたまイギリス人マネジャが日本を去るということで、その後釜に指名されました。「準備出来ていようといまいと、お前しかいないだろ」ということで。

能登原
ボスの信頼があったのですね。

梶川
当時の環境を考えると他の選択肢がなかったんじゃないでしょうか(笑)。日本人をマネジャにしないと半分の日本人が辞めてしまうのではないかという危惧もあったでしょうし、短期的には外国人マネジャでもいいけれども、長期的に日本に根付くには日本人を育てなければならないという判断もあったと思います。

プロジェクトマネジメント的には、その時はせいぜい4〜5人のグループ、長くても半年単位のプロジェクトで、小さなプロジェクトの積み重ねだったんですけれど、そのあと大きなチャレンジがひとつありました。

当時、大手証券会社が運営している証券オンライン個人向けサービスがあったんですが、当時のプロバイダのキャラクタ・ベースのサービスからウェブ・ベースに替えるという仕事を、「株価、経済情報等のコンテンツを持っているから」ということでF社が受注したんです。私はその時に、「これからはコンテンツの時代だ」ということを感じましたね。

能登原
なるほど。

梶川
そこまではいいんですが、プロジェクトのスタートが10月で「4月1日のカットオーバーと決めた」と(笑)。6か月です。予算的には3億円くらいのプロジェクトで、SI担当がG社、JAVAベースということで、スタート時のディスカッションが96年秋に始まったんです。当時G社も商用では初めてで、JAVAは全てクライアント側で使うというのも初めて。そしてクライアントの証券会社は既に3万人の会員サービスを持っている。そのプロジェクトマネジャをやりましたが、これがまた地獄で…。クライアントの証券会社はコンサルを入れたのですが、また向こう側とこちら側の間にグレーゾーンが生じたわけです

能登原
例によって例のごとく、ですね。

梶川
G社やH社のデータベース担当の人が入ってくれて、いろいろ助けてもらいました。
その時に、本格的なプロジェクトマネジメントの辛さ、奥深さ、重要性、それからリスク云々を体験しました。受注したのはいいけれど、F社としてもウェブを使ったサービスはワールドワイドで初めてだったんです。でも失敗は許されない。しかも当時の証券会社さんには「どないしてくれるんだ!」と怒鳴り込んでくる強面の人がいっぱいいたんですよ。

能登原
いわゆる総会屋対策担当みたいな人ですか。

梶川
ええ、正にそのとうり。柔道部出身で、サプライヤとかベンダーをぎゅうぎゅうに締める有名な人がいらして…体力もあるし腕力もある。文句がある時にはF社に来て夜12時まで帰らない。「お前らがうんと言うまで俺は帰らん」と言って(笑)。そういう人を相手にプロマネ、コンサル窓口もやりました。社内の関係者は全員が「ウェブのことはよくわからない、相手の言うこともよくわからない、だからやってくれ」って社長も営業もみんな引いてしまいましたから。とにかく4月1日までは、はらはらしてプロジェクトメンバー以外の周りの関係者はみんな触らないんですよ。「失敗したらあいつが失敗したことにしよう、成功したらよくやったといえばいい」ということですね。これは、あとからわかったんですけど。

能登原
それもまた、国内の異文化との遭遇ですね。それで結局、半年で出来たんですか。

梶川
出来たんです。改善項目は50〜60項ありましたが、それはカットオーバーあとに随時やっていきました。いろいろな分析チャートをJAVAが開くとダウンロードして動作する。今はもう、例えば30日移動平均線とか当たり前ですが、当時はPC側にアプリケーションがなくて、ダウンロードされるJAVAのモジュールでやったのが日本で本格的な商用では初めてだったんです。

JAVAはすごいと思いましたね。センター側でモジュールを替えればそれが3万人に自動的にダウンロードされるわけですから。

能登原
JAVAは運用的には非常に有益ですね。

梶川
4月1日にカットオーバーできるかどうかというストレスは相当ありましたが、肝が据わったプロジェクトでした。後々に林さんとお会いした時に、林さんも「最後はもう落ちるかどうかというところで3本の藁を掴んだことが何回もある」とおっしゃっていました。私はその言葉で真っ先にあの時のプロジェクトを思い出しましたね。

インターネットでビジネスがドラスティックに変わる現場を体験

梶川 哲生さん

梶川
そのプロジェクトが終わったとき、「ちょっと待てよ。F社にいてこんな面白い仕事が今後あるかな。ないに違いない」と思ったんです。なにしろ、あいかわらずインターネットを「遅い・危ない・汚い」と考え、世界規模でDEC社のコンピュータを使って長年オペレーションをしている会社ですから。そうするうちに、みんなウェブ、ウェブと言い出したので、「みんなが同じウェブを使うとなると今度は何が差別化になるのか」と考えて初めていたんです。

能登原
それが次の生活用品企画・販売会社A社への転職の理由ですか。

梶川
ええ。F社で情報が価値を生むことを学んだので「人間のネットワークと情報が結びつくと面白いな」と思ったんです。そんな時に、たまたまA社が求人をしていたんです。ここも外資ですが日本にも会員が120万人いて、今後eコマースを導入したいということで、これは面白そうだと。120万人の人間のネットワークとウェブのネットワークが合体したら何が起きるか、ということに興味があって参加しました。

能登原
そうするとあのeコマースのプロジェクトをやるということで転職されたんですか。

梶川
入社時にはeコマースをやるという明確なことは先方も言わなかったんですけど、匂いがしたんです(笑)。絶対やるなと。

能登原
確かに、ビジネスモデル的には一番適しています。

梶川
入社して1年経った時、2000年対応が終わるという前提で、経営陣が業務改革を行うことになったのです。その中のひとつにeコマースがあり、それから商品直送モデルがありました。A社は会員ネットワークを利用した販売形態なので、それまでは企業で言えば主任のような人がいて、そこに届けてそこからまた個々に配っていた。それをダイレクトにしようということです。それから独自のボーナスシステム改革。月次に販売実績に応じた会員向けのボーナスをあとでペイバックするんです。それを3本立てで一挙にやりました。

3つのプロジェクトをなんとか回すためにインターネットで検索をかけて、アイ・ティ・イノベーションにメールを送ることになったわけです。能登原さんにお会いしたのは、ちょっと落ち着き始めた頃、「IT組織としてどうあるべきか」ということでお話いただいた時でした。

能登原
そうでした。インターネットを使う業務改革はA社には絶対に必要なプロジェクトだったと思います。ITの使い方としては一番合っていますね。

梶川
それまでは商流と物流が人間経由だったんです。それを直接発注、直接受注と一対一にする。でもビジネス上のボーナス計算は人間経由のネットワークに基づいた計算をしてお支払いをする。あれは大きな改革だったと思います。同時に購買履歴も全部データベースに入れて分析をしてリコメンデーション(商品のおすすめ)をしようということで。

能登原
One to Oneマーケティングのようなものですね。

梶川
そうですね。でも、One to Oneは例えばAmazon.comでは機能的にうまくビジネス・モデルと合うんですけれども、A社のように人のネットワークが関与している場合は必ずしも上手く行かないこともあるとわかりました。当然、人間からなるグループによって「今年はこれを客向けにこういうアプローチで売ろう」というシナリオがありますよね。ウェブが勝手にへんなリコメンデーションを出してくれるなと言われるんです。「自分たちが言っていることと、ウェブが言っていることが違うじゃないか、どうしてくれるんだ」(笑)と。そういう難しさがあります。例えば、営業が現場で言っていることと違うことが会社のホームページに書いてあったら…

能登原
なるほど。それはまずいですよね。

梶川
ですからマーケティング、企画、プロモーション、それから実際のレスポンスをはかるやり方、その辺りのことが私には随分勉強になりました。F社では情報が一方通行でしたから、インタラクティブな中で転がっていく実際のビジネスが見えるということは、また違った面白さがありました。

能登原
A社のプロジェクトはITを導入すればビジネスに直結すると実感でき、お手伝いするわれわれもやり甲斐がありました。「これは貢献できるな」と感じられて。

梶川
そうそう。上手くインプレメンテーションすれば、次の日から数万人、数十万人がそれを使うわけですからね。だから逆に上手くいかなかった時には怖いです。

能登原
でも「大丈夫かな」と言いながらも、カットオーバーも無事成功しましたね。

梶川
そうなんですよ。A社の4年間でもカットオーバーを決めた日を一度も延期していないんです。もちろんリスク管理として時間的なバッファも取ったということもありますが。でも、ITだけで単独で決められるスケジュールではないのでね。パートナーさんに恵まれました。

能登原
結構ギリギリのスケジュールでしたけれど、「何とか頑張ればカットオーバーできるんだ」ということを目の当たりにした思いがします。

梶川
いま思うと、プロジェクトという皿回しを3枚同時にやっていたようなものです。よく1枚も皿が落ちなかったなと思いますね。

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Profileプロフィール

能登原 伸二
能登原 伸二
■株式会社アイ・ティ・イノベーション 取締役 兼 専務執行役員 ■株式会社ジャパンエナジーの情報システム部門において、長年、情報システムの企画、開発、運用までの幅広い業務に携わり、ITによる業務改革、収益向上を支援してきた。また、その実務を経験する中で、システム開発における開発方法面の必要性を認識し、C/S向け開発方法論の制定、導入を推進。常に顧客と共に考え、行動し、成果を上げることをモットーとしている。

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