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金子 高志さん(1) インフォコム株式会社 エンタープライズ事業本部 テレコム事業部 副部長

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金子高志さん金子 高志さん(かねこ たかし)さん
インフォコム株式会社
エンタープライズ事業本部
テレコム事業部 副部長
1984年東京電子専門学校電気計算機科卒。同年、鐘紡株式会社入社。情報システム本部に配属(同本部は外販でSI事業を行っていた組織)その中でミニコンピュータを利用した通信制御系(製造業のライン制御や、流通業の音声応答システムなど)のSW開発を担当。1985年同組織にて、金融系のSI事業に参入。その中で金融NW(全銀系NW、地銀系ATM-NW、CAFISなど)のシステム開発にSEとして従事、その後PMとしてプロジェクトを担当。1995年鐘紡株式会社を退職、インフォコム株式会社(当時の社名、日商岩井インフォコムシステムズ)に入社。グループ会社向けシステム開発プロジェクトから始まり、図書館向けシステム開発プロジェクトのSE兼PMを担当。1996年通信事業者向けSI部隊(現テレコム事業部の前身)が組織編制され、同組織に参画。通信事業者向けのSI事業でシステム開発プロジェクトのPMとして従事、様々なシステムを構築。2006年同部門にて、PMOを立ち上げ、ドキュメントの標準化、開発手法の整備などプロジェクトマネージメントに関して整備を行うとともに、人財育成(PM育成など)をテーマに活動を行う。
信条 – プロジェクトは不安定な物で、その成功失敗を決めるのは人である。PMでありプロジェクトメンバーである。良いプロジェクトチームとは、元気で活気があり充実したチームである。メンバーが満足し充実したプロジェクト活動をすれば、おのずと結果はついてくる。故に、プロジェクトは人である。

食いそびれない商売に就きたい

能登原
この対談では、経験豊富で仕事の出来る方が今までスキル、経験を積んできた道筋を明らかにし、それを参考に若手がやってみようという気になればと思っています。
では、早速はじめさせていただきます。

金子さんの学生時代のプロフィールを拝見しますと、コンピュータ関係を目指そうとされていましたね。なぜ、コンピュータ関係の仕事に携わろうとされたのですか?まず、業界に入ったきっかけとか、思いとかお聞かせ願いますか。

金子高志さん

金子

高校生の時、自分の進路とか将来を考えた場合、大学進学を考えますよね。私は、大学に進学する以前にどのような職業に就くのかが重要だと思いました。周りにも多くの受験生がいましたが、ただやみくもに大学に進む必要がないと思いました。これからは、就職し社会人となり生活していく中で、食いそびれない商売に就きたいと思いました。色々な職業がある中で、今後は、コンピュータ抜きにして語れない世の中にきっとなっていくのだろうと思いました。事務処理系もしかり、デバイス系もしかり、いわゆるコンピュータは必ずついてまわると考えた時、作る側になっていればおのずと先々食いっぱぐれないだろうと思いました。そして、卒業していざ就職するとなった時に、ソフトウェア会社やメーカと、コンピュータ関係の会社は沢山ありましたが、学校ではプログラムとかの勉強をしてきましたから、メーカに進むよりもむしろソフトウェア会社を選びました。

能登原

私は、金子さんより1年早く1983年に社会人になりましたが、その当時、コンピュータ業界は、なんか将来明るい展望がありました。そういうことは、お感じになられましたか。

金子
その頃周りをみると、パソコンというものが出てきたかどうかの頃だったと思います。当時は、NECの88とか98があって、OSはBASICのみだったと思います。その時、パソコンは、私自身こんなに身近なものになるとは、思いませんでしたが、明るい未来とか食いっぱぐれのない職に困らない世界になるのではないかとなんとなく感じていました。それと実際にパソコンに触れてプログラムを作ってみると、自分の思い通りに動いて面白いんですよね。これは、仕事的に自分には合っているのではと思いました。

能登原
金子さんは鐘紡に入社されましたが、社内のシステムではなく、外販向けのシステム開発ということをわかって入社されましたか。

金子
はい。わかっていました。

能登原
では、当初からSIerに就職するということで入社されたのですね。

金子
当然、鐘紡を受ける前にも他社の採用試験も受けたりしました。その中には社内の情シス部門もありましたが、双方合わずで不採用だったということもあります。一方で、鐘紡の人事や、SI事業本部の方と話しているとちょっと違うなという感じがしました。鐘紡の役員面接のときに、当時の本部長が結構人格者というか、とても勢いのある方でした。非常に現場を大事にする人物という印象でもありました。また、よくお話される人でもありました。この方と仕事が出来れば、面白いのではないかと思い、鐘紡に入社を決めました。

能登原
なるほど。鐘紡に入社すれば自分自身成長もできるし、面白いこともできると思ったわけですね。

金子
はい。この組織は鐘紡の中でも歴史の若い組織で、立ち上がってから10年足らずの組織でした。元々は大阪に拠点を構えていて、私が入社する4、5年前に東京に進出してきました。私は、この組織が東京に進出してきた、初めての東京採用でした。当時、東京の部隊は社員20名ぐらいの組織でしたが、新人を10名も採用しました。総勢30名になりましたが、3分の1が新人というありえない組織になっていました。そうこうしている内に事業が大きくなり、翌年は倍の採用をし、かつ大阪から人が移ってきたので倍倍で人が膨らんできました。そして、好況の波にのることに成功し、80年代後半には、800名ぐらいの組織になっていました。ただ、悲しいかなその後バブル崩壊とともに衰退の一途でしたが。

通信制御の道に

能登原
そのころは、こなし切れない数の仕事があったのですね。

金子
そうですね。最初は、通信制御系の製造業とかの工場の生産ラインの制御や、検査機器からの情報収集などの制御システムの開発の仕事をやっていました。その後、流通系のシステムを担当しました。流通では、ハンディターミナルを使ったPOSと連携する仕組みとかを開発していました。その後、金融も手がけるようになりました。金融は、古くから金融機関同士のネットワークが欠かせなくて、BANCS、MICSやATMのネットワークなど金融機関同士の対外接続に代表されるネットワークがあります。私は、これらのパッケージを作っており、主にCAFISに関するパッケージ開発をしていました。

能登原
流通業界から金融業界の仕事に移られたときに、対象の業界が変わることで、様々な面でお作法の違いがあると思いますが、そこには、抵抗なかったですか。

金子
お客様の質が全く違いますね。金融機関は、厳格というイメージがありますね。今でこそセキュリティとかコンプライアンスとかの話がありますが、当時からやはり、ものづくりに関する品質は非常に厳しかったです。当然、工程を管理するとか成果物のチェックは、厳しかったです。一方、流通業界は、お任せしますという感じでした。かなり、自由に出来ましたけどその分頼られる部分があるので、トラぶったときに一生懸命にカバーしないといけないというところはありました。

能登原
入社時の話に戻りますが、私も最初の1、2年は結構、様々な急ぎの仕事を担当したり、リーダをやったりと今までの会社生活の中で非常に厳しかった時期なのですが、最初の1、2年はどのようなお仕事をされていましたでしょうか。

金子
最初の1、2年は、ものづくりでしたね。制御系のミニコンピュータでした。

能登原
言語は、Cとかでしたか。

金子
いや、アセンブラでした。正確に言うとアセンブラの中でも、ミニコン独特のアセンブラライクな言語があって、それを使って開発をしていました。

能登原
ミニコンというと、DEC社製のVAXシリーズでしたか。

金子
IBMのシリーズ1でした。特に得意なところはシステム同士をつなぐシステムが多かったですね。変わったところですとネットワークプロトコルをお客様であるハードウェアメーカと一緒に開発する仕事なんてのもありました。

能登原
そうなると、通信の基本的なところから開発をしないといけないですよね。教育は、社内で受けられたのですか。

金子高志さん

金子
入社当時、組織が大きくないので教育については、確立したものはありませんでした。また、特殊すぎるので外部にオープンなセミナーがあるわけないので全て独学でした。特殊なボードもありましたから、メーカから取り寄せて英文のマニュアルを解析しながら、手探りでひとつずつやりました。ただ、上司には、恵まれていました。今でもお付き合いがあり、私が師匠と思っている人なのですが、その上司は非常に優秀な方でして、OSの原理原則、ものの作り方、プロトコルの基本的なところはその方から仕込まれました。

能登原
素晴らしい上司との出会いがあって、順調に仕事に入れたのですね。

金子
年こそ10歳ぐらい違うんですが、当時その上司はグループマネージャという立場で、初めて組織と部下をもって、彼自身組織をどうするかという経験がない中でやっていました。 むしろ、上司と部下というよりかは、本当に師弟という言い方が最も適切だと思います。 その方は、色んな仕事をやっていましたから、ほとんど席にいないので外出から戻ってきたところを捉まえては、ちょっと教えてくださいとやっていました。手取り足取りという話ではなくて、困ったら俺のところに来いという感じでした。

能登原
そのような優秀な方は、いつも引っ張りだこですね。そういう厳しい上司の支援もあって失敗もなく仕事をこなしてきたのですね。

金子
入社から半年間は、新人の教育期間なので周りの先輩が色々と面倒を見てくれました。その頃、あるプロジェクトが火を噴いて、私が支援で呼ばれましたが現場に入ると手がつけられない状況でした。テスト工程に入っていたのですが、バグが取りきれない状態でした。動かせば動かすほど、バグが発生する状況でした。そのプロジェクトは、新人2名に先輩1名という体制でした。そこに私ともう一人先輩が加わり、ソースから何から全て解析し、なんとか完了することができました。次のプロジェクトは、先ほどお話しをしたミニコン系のネットワークの仕事でした。その当時は、日本でもそんなに使ったことのないボードと社内のハード系のチームが作っている通信用のボックスとをつないでコントロール機能をもったサブシステムの開発の仕事をしました。その当時は、新人ですから設計書の書き方とか、教わっていないのでちゃんと書くことができませんでした。

能登原
そうですよね。それは、入社何年目ですか。

(次回に続く)

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能登原 伸二
■株式会社アイ・ティ・イノベーション 取締役 兼 専務執行役員 ■株式会社ジャパンエナジーの情報システム部門において、長年、情報システムの企画、開発、運用までの幅広い業務に携わり、ITによる業務改革、収益向上を支援してきた。また、その実務を経験する中で、システム開発における開発方法面の必要性を認識し、C/S向け開発方法論の制定、導入を推進。常に顧客と共に考え、行動し、成果を上げることをモットーとしている。

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